日本の問題点と思考
「やめる」事で向き合うもの
現代の日本では何かを「やめる」という事は非常にネガティブなものとして捉えられる。
無職になるということは、ニートという言葉が存在したり、自宅警備員なんていう半分ネタの言葉もある。
稼いでから辞めたとしても、大衆の評価はただの無職であり、価値すらない人間であるかのような扱いになる事も少なくない。
そのような扱いを受けながらも、無職が向き合わなくてはいけないものが、山ほど日本には存在する。
自分が何者なのか、この社会はなんなのか、自分はおかしいのではないか?という問いである。
日本の教育はこのような哲学的に考える訓練を全く受けなくても、なんとか、受験勉強をくぐり抜ければ、死ぬまで「賢い」と評価される謎の学歴ルールが存在する。
要するに高校3年生の時の出来を一生その人間の基準にされるのだ。正直、世間一般の人が、仕事をしている時に考えては無駄な問題を、無職は考えなくてはならない。
例えば、無職だと仕事をしている人より、精神科に連れて行かれる可能性が高くなる。
そこで待っているのは自分は何かの病気なのではないかという問いである。
このように、すぐに利益にならない、社会的評価に繋がらない、禅問答のような、問いが、無職には待っている。
働くのを辞めたい人が、いつまでもその会社で働くのは、ニートになりたくない、無職にはなりたくないという無意識が働く事がかなりのファクトを締めるに思う。
生活の為ということもあるが、実際には、私は「働いている」という事が大事なのであって、内容は求められていない、「働いている」という安心感、最低限の社会的評価、いや、”世間的評価”の獲得の為であると思う。
そこには、無職の方が向き合うべき課題が多いのではないか、問いに耐えられず、すぐに就職活動をする、なにをしているのか、世間がすぐにわかる事をする、所属しようとする。問いから逃げようとする、まさに、逃げの就職活動と言えるのではないだろうか。